VOICE

卒業生・保護者からの声

美音さんのお母様

娘が不登校になり、向き合った6年間
フリースクールに通い始めた後半3年間は、娘にとって、親以外で、そのままを受け止めてくれた唯一の大人(うっしー)とのかけがえのない時間でした。

親でもない、先生でもない、友だちでもない、そんなうっしーは娘にとって、時を重ねるうちに大切な家族になったようです。

親にも言えない事を話せる、受け止めてくれる、うっしーの存在は、私たち親にとっても、有り難い存在でした。

そして何よりも、信頼出来たのは、うっしーが、無敵のスーパーマンでも、正義のヒーローでもなく、時には落ち込み、それを、猫に癒され、子どもたちに癒され、日々を淡々と懸命に、生きているのが感じられたからです。

「うっしーには、守りたいものがある」

実はその守りたいものに、守られていたうっしー。

そんなうっしーだからこそ、 寄り添える事が出来ます。

娘も今では、通信高校に通いJKライフを、多様な関係性の中で、悩みながらも体験を楽しんでいます。

りょうや君のお母様

7年前、息子が不登校になりました。そんな時に出会ったおひとりが、牛木克彦さん、 「うっしー」です。
地元の小学校に通っていた息子は、クラス替えの後、そのクラスになじめなくなり 学校へ行くと体調不良を起こし、教室でみんなと過ごせなくなりました。最初のうちは 学校の保健室や会議室で過ごしていましたが、改善は見られず、つらい日々が数カ月続きました。

ある日、いつものように息子と話しをしていると、息子が、「僕、学校はきついけど、学びたい。」
と言ったのです。授業に出れないことで、勉強が分からなくなることに不安があるようでした。
そこで、二人で、学校以外で学べる方法は、どんなことがあるのかを調べてみました。

すると、それまで知らなかった色々な学びの方法があるということを知りました。フリースクール、通信教育、中間教室、ホームスクール、農村留学など、そこにはいくつもの選択肢がありました。
いろいろな学びの場があることが分かり、親子で楽しくなってきました。そして、息子が興味を持ったのが、当時、うっしーが開いていた沖縄のフリースクールでした。

私たちは長野に住んでいましたので、沖縄のフリースクールは現実的ではないと思ったのですが、息子があまりにも興味を示したので、まずは電話をかけてみることにしました。

私たちの状況をお話しし、実際に沖縄に移住してフリースクールに通うことは難しい状況でしたが、「体験入学だけでも変化するお子さんがいますので、一週間、沖縄に来てみませんか?」とのご提案に、「何か変わるかもしれない」という直感にかけてみることにし、そして、2週間後、息子と一緒に沖縄へ向かいました。

最初は緊張していた息子でしたが、温かく迎え入れてくれたうっしーはじめ、スクールの皆さんに少し安心した様子でした。

私は、正直に言いますと、沖縄に行くまで、「環境が変われば、息子の状況が変化するのか、環境が変わっても変化が見られないのか」を検証したい、と同時に、フリースクールというのは、学校に通えない子たちが集う場所、というイメージを持っていました。

それが、自己紹介のための一分間スピーチを行うため、マインドマップを書き、自己紹介の構成を組み立て、息子の発表の前に、そこに通う皆さんのそれぞれの一分間スピーチを聞いた途端、とても恥ずかしくなりました。
なぜなら、私が大人になり、セミナー代を払い習得したようなことを、小学生、中学生が行っていたからです。
そして、学校に通えないから、という選択肢以上の何かがここにはある、と感じました。

2日目には大きな声でみんなの前で話す息子の変化に驚き、3日目には、それまでお世辞にも字がうまいとは言えないミミズがはったような字を書いていた息子の字が、角がしっかりとした力強い筆跡に変わったことには、本当に驚きました。

また、それぞれ年齢の違う子たちが一つのテーマについてディスカッションし、答えを導きだしていくという形の授業。
そこには、自分の意見を述べ、他の人の意見をくみ取り、答えを導きだしていくために構築していくという、高度な学びがありました。

びくびくしない安心した環境の中で、本来のエネルギーが発揮され、その子にあった学びの場、学びの形がぴったりと合えば、子どもたちというのは、こんなに急速な成長を遂げるのかと、驚き、感動を覚えたのを記憶しています。

そんな子たちの本来の輝きや力を導いてくれるのが、うっしーです。彼自身は、一緒に過ごし、背中をそっと押しただけ、というかもしれませんが、子どもは、大人が思っている以上に、大人をよく見て、信頼できるかどうか、自分と合うかどうかを見極める感覚をもっていて、特に、敏感で繊細な感覚を持っている子ほど、その傾向が強いと思います。そんな純粋な子どもの目が、この人!と思える人間力を持っている人がうっしーなのです。

息子はその後、一度長野に帰り、今度は一人で3週間ほどではありましたが、沖縄に向かいました。その間も、息子と離れ心配する私に、うっしーは、毎日、丁寧に近況を知らせてくださり、3週間後に戻ってきた息子は、繊細な感覚を持ち合わせながらも、力強い光を放っていました。

そして、今、高校3年生になる息子は、高校でいろいろなプロジェクトに関わり、生徒会長を務めています。そして、人やコミュニケーションに興味を持ち、大学では、哲学や心理学を学びたいと、目標を持ち、日々過ごしています。

成長する過程の中、どんな人と出会い、どんな学びをするか、とても大切なことを教えていただいたうっしーはじめ、沖縄の皆さんに親子で今もなお感謝しています。

綾哉の母 のぞ美

Aさんのお母様

【 Aさんが沖縄に来ることになった経緯 】
海外に住む娘は中学校3年生の頃から、私の離婚がきっかけで対人恐怖症になってしまい、同じ年代の子供たちとの付き合いが苦しくなっていました。
そんなこともあり、毎日通う普通の学校から週一回だけのインディペンデントスタディ学校に変更して、クラブ活動と近所の短大でビジネスのクラスを取る生活をしていました。

娘が苦しんでいる際に、牛木先生に相談させていただいたこともあり、いつか母子で沖縄に行きたいとおぼろげに思っていました。そんな矢先に、コロナが発生。
学校がオンラインになったことをきっかけに、「安全で自由に動き回れる日本で生活するチャンス!沖縄に行って牛木先生のお手伝いをしつつ不登校の子供たちと交流をしたい」と娘は考えるようになりました。
同じ悩みを抱える子供たちの聞き役になると同時に、自分自身の癒しの意味もありました。

【 反対された部分 】
牛木先生は娘の受け入れを快くすぐ引き受けて下さったのに、一方では日本に住む家族が人の迷惑になるから(自分たちの迷惑?!) 絶対に来て欲しくないと否定的。
一旦諦めましたが、どうしても行きたいと言う娘の強い願いもあり、行かせることを決めました。

万が一何かあった時のために、海外旅行保険で対応し、仮にコロナになって入院したとしても、本人は「それでも大丈夫」と言うので、当時15歳でしたが2週間の検疫中、日本滞在は1人で何かあれば義理の妹と私が対応することで何とか娘の祖父母を説得。

非常識な母娘の行動と世間の目も気になったのも事実です。
コロナが落ち着くであろう来年以降、計画すればよい旅行なのかもとも非常に迷いました。

でも今回沖縄で娘を受け入れてくださった30年来の友人の牛木先生の言葉が心の支えになりました。
「大人の1年と子供の1年は重要さが違う。1番大事なのはAさんの意志。こちらは受け入れるのは迷惑ではない。」
暗中模索の中、希望の光を届けてくださいました。

これまで私は比喩に例えると、運転席に座って、助手席に座る娘を全てコントロールしてきたと思いました。父親の存在がほとんどない母子家庭なので、私がその分頑張ってしっかり運転しなきゃと言う気持ちでやっていました。
でも、彼女に運転席を譲り、私は助手席に座ることを決めました。はじめはとても怖かったです。
特に日本に行きたいと娘が言った時、コロナのこともあり、何かがあったらどうしよう、家族からも責められると言う恐怖がありました。

それでも、大事なのは、「彼女のやりたいことを尊重し、自由と責任の意味を体感してもらうこと」と自分に言い聞かせ「運転席に座る彼女」をサポートし続けました。

驚いたことに、日本での生活が始まった途端に、「今の自分にとてもハッピー」と娘が言い出すではありませんか。彼女自身の命がまた活気づいていることを実感しました。
家族からのいろんなプレッシャーがありましたが、生きることに一生懸命な娘を、温かい目で見守ってほしいと言い続け、今に至っています。

【 滞在期間中のAさんや僕とのやり取りで思ったこと、感じたことなど 】
日本は、調和を尊重する国で、自分を多少犠牲にしてまでも、相手の気持ちに寄り添うことを美徳とする国です。私もその日本の価値観で育ち、特に学校で教わったSmall I, Big You(自分の気持ちを犠牲にしでも、相手を立てる)を意識した生活を長年心がけていました。自由や個性を尊重する海外で子育てをしている間も、日本の価値観を娘に強いてきました。結局、娘が壊れるほど。

彼女が沖縄に滞在している間、牛木先生に「良い子すぎるのが心配」と言われ、とても考えさせられました。

少し位ぼーっとして、わがままでもオッケー、自分の心の声に耳を傾けられるように、娘を放っておくことが良いとの思いに至っています。本人がハッピーなら、周りもきっとハッピーになれると。無理する必要は何もない。そんな気持ちになっています。

特に家族や近い関係の友達のコメントは気になりますが、それからも彼女を守らなくてはという心境です。

【フリースクールの未来の生徒や保護者さんへ】
牛木さんは子供の気持ちに寄り添える慈愛に満ちた楽しい先生。本当に大切なものがわかっている、でも肩に力が入らない自然体の方。牛木先生のことを表現するとそんな風に言いたくなります。
どこからそんな先生が培われたのか私なりに考えてみました。
実は私の牛木先生との出会いは今から30年前、大学生の時スキューバダイビングのライセンスを取りに、東京から遊びに行ったときのことです。
海に潜る時間を通じて、人間の限界や、協力し合うこと、どんな状況に置かれても自然体でいることの大切さを学びました。

牛木先生の原点は沖縄の海にあると実感しています。
子育てには迷いがたくさんありますが、牛木先生は子供一人ひとりの良さを理解して、親である私たちに子供の気持ちを代弁してくれ、迷ったときに1つの方向性を見せてくれます。それはまるで霧の海に立つ灯台のよう。先生とのやり取りで、心でモヤモヤしていたものがクリアになるはずです。
少しでも迷いのある方は、牛木先生にご相談なさることをお勧めしたいと思います。子育ての解が見えてくるはずです。

喜舎場美音さん

私は、小学校3年生から不登校でした。
中学に上がる頃、母が見つけてくれたフリースクールの説明会に何かきっかけを起こしたいと参加したのが、うっし〜との出会いです。

その当時、説明会に来た理由を問われた私は「今の今まで何もしてこなかったから」と答えました。それにうっし〜は「何もしてこなかったわけないし、色々抱えて考えてきたよね」って。

正直初対面で何がわかるんだと思っていましたが、何故か泣きそうになっている自分もいました。
でも時を重ねていくうちに、泣きそうになった理由とこの言葉の真意に気づけた。

うっし〜から学んで今では私のモットー「どの場面を切り取っても学びになる」ということ。

これは当時、不登校で何もできていないと思い込み劣等感を感じていた私の心を、ハグしそんなことないよとぽんぽんしてくれた言葉だったなぁと感じています。

最初から打ち解けたわけではない。でもここまでうっし〜の全てが大好きになったのは、うっし〜がいつだって等身大で素直に私と向き合って一緒に成長してくれたからだと思います。

私にとってうっし〜は家族です。
そんなうっし〜に出会えた私は紛れもなく幸せ者ですね。

私は晴れて高校生になりました!辛いことがあっても、フリースクールを卒業した今、フリースクールで学んだこと、うっし〜からもらった無償の愛がわたしの心強い支えになっています。かけがえのない日々をありがとう。
これからもよろしくお願いします!ずっと味方!

照屋舞さん

私は、中学一年生の夏休みに、東京から親の実家がある沖縄へ引っ越してきました。
夏休みが明けてから通い始めたものの、あまり他の人と馴染めず、日が追うごとに朝が起きれなり、身体に不調が出始めてゆき、いつのまにか学校には行かなくなっていました。中学にまともに通ったのは半年ぐらいだったと思います。

不登校で一番辛かったのは、「勉強はしたいけど学校には行きたくない」という葛藤です。

学校に行かないとこの不安が解消されないのにそれが出来ないというジレンマで苦しんでいました。

部屋に引きこもるようになって半年程経って、母がフリースクールの存在を教えてくれ、3件程回った後、うっし~のフリースクールに通うことにしました。

フリースクールに通って牛木から学んだことは「何処ででも、何からでも学べる」という考え方です。学校にいけないからフリースクールに通っていたのが、フリースクールに行く選択をしたという考えに変わり、フリースクールでも学ぶことが出来ると心から思えるようになり、本当に救われました。

うっし~の存在は、唯一心を許せる大人でした。
思春期と反抗期という一番混ぜたらいけないものを持ち合わせて、尖りまくっていましたが、うっし~は大人の力で丸め込むというよりは、同じ立場から話してくれるので心を開くことが出来たのだと思います。不登校を経験して、同級生や大人が信じられなくなっていた中で、「わかってくれる大人」の存在があったのは本当に大きかったです。

フリースクールに通い始めて徐々に回復していき、中学三年の時にはフリースクールに通いながら調子がいいときは保健室登校をしていました。

その後フリースクールを卒業し高校に通い始め、自分の中で黒歴史ともいえる中学三年間を上塗りするように学業やスポーツに勤しみました。

又、この時から大学に行きたいという思いがあったので、推薦を取るために色んなことに挑戦しました。
結果として内申4.9で成績優秀者を取る事が出来、高校を次席で卒業し、県外の国立理系大学に入学することが出来ました。

昔から自分の夢だった「大学で大好きな魚の勉強をする」という夢が叶ったのも、フリースクールで過ごした時間があったからこそだと思います。

結局頑張るのは自分自身ですが、頑張ることが出来ない環境というのも実際あると思います。不登校時代を振り返ってみて、うっし~のような背中を押してくれる人が居て本当に良かったなと思いました。

上岡萌絵さん

「もしいま火事が起きたら、俺は命を投げ出してでも君(たち)を守る。」
中学2年生の春に"不登校"になり、自分にも他人にも心を閉ざしていた私は、文字通り絶望に浸っていた。どん底まで堕とされた私が牛木克彦(以下うっしー)となら、この状況をどうにかできるかもしれないと思えたのは、この一言がきっかけだった。

うんざりしていた。「君のため」という言葉を前に置けば、何を言っても許されると思っている大人たちに辟易していた。それっぽい言葉で取り繕われた「説教」はもう聞き飽きた。

「今学校を辞めたら人生が終わる」「頭も成績も良いのに勿体ない」、それらの言葉は私のためではなくて、あなたが自分の立場を守るために発したものでしょう。あの頃の私は、"教育者"の仮面を被って小手先だけで問題を片付けようとする大人たちが大嫌いだった。中身のない「正義」を振かざして、誰かが言った「正解」を突きつけてくる"教育者"たちに、私の気持ちがわかってたまるかと思っていた。

うっしーが、上に書いたような空っぽの「教育者」ではないということは直接会えばわかる。
話さなくとも、眼を見るだけで感じ取れるほどのパワーがある。
私はいまでも、あの時の自分の直感を信じてよかったと思っている。

うっしーと関わるようになって、直ぐに「学校に行けなくても生きていていいんだ」と思えるようになった。しばらく経って、「私は学校に行かない選択肢を選んだのだ」と思えるようになった。大した理由もなく不登校になったのは事実だが、「勿体無い選択」をしたかどうかは自分で決めたかった。
道を踏み外したかもしれないけれど、人生を棒に降ったわけではない。
ここからいくらでもやれる、と思わせてくれたのは、「世界平和」を本気で望んでいて、小さな命を大切に想ううっしーと出会えたからだった。

うっしーが立ち上げたフリースクールで経験したことやかけてもらった言葉たちは、いまでも私の一部として生きている。あの不登校時期に自分の命をかけてでも子供たちと向き合っていたうっしーと出会えたから、自分の人生に、選択に、責任と愛を持って生きようと思えた。

フリースクールを卒業した私は、入学した通信制の高校を評定平均5.0で卒業し、推薦で入学した東京の大学を主席で卒業した。GPAは3.98だった。
数字だけみればまあまあ凄い「結果」なのかもしれないが、私はただ小さな選択を重ねていっただけだ。不登校の時にたくさん休んだから、大学では何事に対しても真剣に取り組んでみようと思って過ごした。いつの間にか、失敗や間違いも含めて、自分の選択を尊重できるようになっていた。出来ない自分を愛せるようになっていた。

「失敗も人生の経験値だよ」「迷った時は難しいほうを選ぶといい。その方が経験になるから」というのはどれも、うっしーの口から飛び出たパワフルな言葉だ。
そこまでストイックに生きなきゃいけないとは思わないけれど、そういう精神を貫く大人と関わる経験は必ず財産になる。

結局のところ、結果と過程のどちらが大事かなんて、やってみなきゃわからない。ただ、不登校とか学校にいると息がしづらいとか、そういう「歪み」を若いうちに感じ取れたのだとしたら、自分が納得できるところまで違和感を突き詰めたら良いと思う。見て見ぬ振りをしていると、後になって必ず自分に返ってくる。幼い頃に嫌悪していたはずの「つまらない大人」に近づく自分を、黙って受け入れてしまっていいのか。

うっしーは、子供たちの違和感──「なんで?」を全部受け止める。理不尽なことを「そういうものだから」で片付けたりしない。
「社会に出たらそういうことはたくさんあるよ」なんて、一辺倒な答えは出さない。どんな問いについても、必ず一緒に最後まで考えてくれる。

  だから私は、彼を推薦する。彼の立ち上げるフリースクールを薦めたい。牛木克彦は、私が人生で初めて出会った「恩師」だから、これからの活躍も期待しています。私も負けずに頑張ります。

海美さん

私は中学校に入学した時に、小学校までの環境とのギャップや、いじめそして、いじめを見て見ぬ振りする先生それらにショックを受けてしまい人と目を見て話す事そして表情を人に見せないようにマスクが外せなくなってしまいました。
中1の夏休み前にはもう引きこもりで学校に行けず、毎日「辛い」「生きたくない」「誰とも話したくない」と母にも顔を見せるのも嫌がり母と話をするのすらとても辛いと感じていました。
母もどうしていいからわからず、精神科を3件ほど回り、「対人恐怖症」と診断されました。

中1の10月ごろに母が相談室登校を提案してくれて少しではあったが相談室登校をするようになりました。
そこで出会ったのが2個上の先輩でその先輩がうっしーのフリースクールを通ってたよと教えてくれ私はフリースクールに興味を持ちました。
そのまま中学2年にあがり相談室登校は続かず学校に行けない自分を凄く責めていました。引きこもりの生活に戻ってしまい、その時にふと先輩がいってたフリースクールを思い出し母に言って見学に行くことにしたんです。
うっしーと初めて話をした時に、「学校に行けないことは悪いことではなく学校に行けなくても学ぶことはできる」と言った言葉に私は心がほっとしたのです。
家に帰って母に私はこのフリースクールに通いたいと言った時私は久しぶりに母と目を見て話すことができたんです。母は「あの時久しぶりに海美の笑った顔が見れて泣いたよ」と言っていました笑

学校に行けない自分と学校以外で私は芸能活動をしていてその葛藤し苦しんでいるときも唯一うっしーには何でも話せて1人の人間として私と向き合ってくれました。

うっしーのフリースクールとの出会いで私は日に日に人と目を見て話す事笑うことができるようになりました。

フリースクール卒業後は通信制の高校に進学しオールAの成績で高校も無事卒業できました。

今は小さい時から好きだった歌が歌える、ライブハウスのボーカルとして働いています。

人と関わるのが怖く「対人恐怖症」と診断された私ですが今では人と話すこと関係を築くことが楽しく毎日笑っていられてます。
フリースクールでうっしーとの出会い、そして学びはどこでもいつでも学べると教えてくれたからこそ学校に行けない自分を責めるのをやめ前に進むことができました。

学校に行けない自分が嫌な時、学校に行けなくても学べること。1人の人間として向き合ってくれる事。フリースクールがあったからこそ今の自分がいます。うっしーには母も私もとても感謝しています☺️うっしーありがとう